『人新世の「資本論」』の問題点・課題メモ

※2021年6月16日 食料自給率に関してより詳細な記述となるよう加筆を行った。

今月(2021年6月)、何故だか知らないが斎藤幸平(2020)『人新世の「資本論」』について話し合う機会が多かった。大学のゼミ形式のコマでも同書を読んで、感想・関連事項に関する発表をするようにと言われて実際発表したし、知り合いがやっている勉強会にたまたま出席したら「今回扱うのは『人新世の「資本論」』です」と言われた。斎藤が同書で批判している広井良典のファンが勉強会にいたこともあって、彼とは広井擁護の方向で盛り上がった、気がする。ゼミ形式のコマのほうでも、僕を含め「30万部も売れているというが、一体どれくらいの人間がきちんと読んでいるのだろうか」と言われるぐらい斎藤の主張に懐疑的な意見、斎藤の提案の実効性を疑問視する意見が目立った。

本記事では『人新世の「資本論」』を読んで、僕が同書への批判点・疑問点をまとめて作成した発表用資料をベースに、ゼミで僕が受けた話や勉強会で印象に残った話を盛り込んだものを公開する。元々箇条書きで作っていたためにややまとまりには欠けるが、それぞれの要素を結びつけるストーリーを改めて組みなおすほどのものでもないような気がしたので、そのまま掲載することにする。付言しておくと、僕は斎藤の意見で同意できないものは多いものの、本記事は斎藤批判を目的としたものというよりはむしろ斎藤批判を通じて、自分の立ち位置を明確にし、次なる自分の記事へと繋ぐようなメモを残すことを目的としたものである。それではメモ書きに入ろう。

メモ本文

※( )内にページ番号が特に断りなく振ってある場合、それは斎藤2020の該当ページである。

斎藤幸平(2020)『人新世の「資本論」』で述べられている結論には同意するものもいくらかあるが、そうした種々の結論に至る理論的組み立ての多くや一部の結論には同意できない。

まず同意できる結論としては、社会的共通資本(宇沢2000)やコモン(ネグリet al. 2003)をいかにコミュニティに取り戻すかが今後脱成長を目指すうえで重要だということ、そのためにはエネルギーや食料といったものの生産を共有化すべきであるということが挙げられる。これらは今後、政府主導の「成長・拡大」から「コミュニティ経済」へと移行していくうえで重要だ。

その一方で同意できない結論や理論的組み立ては数多い。

労働価値説 「自由市場」の成立と持続

まず第1章において斎藤は、ウォーラーステイン世界システム論やマルクスの三種類の転嫁など、不等価交換や労働価値説に基づく議論を展開している。しかしこれは明らかに誤った理論に立脚していると言わざるを得ない。岩井2006で述べられているように、マルクスが観察していた時代は、資本主義の初期や拡大・成長期であり、物価上昇率と実質賃金率の上昇とが符合していた。そのため、労働には一定の価値があり、生産の現場には労働の不等価交換があるという錯覚を生じてしまったのである。

国際間の外部化についても、原因を不等価交換に求めることには無理がある。HIVの抗レトロウイルスワクチンのアフリカ諸国への輸出規制(アデスキー2003)から産業廃棄物の廃棄まで、発展途上国への不当な取り扱い搾取は、市場を通じた純粋に自由な取引からは生じない。むしろ国家間の協定等によって、市場の形が搾取的なものに変更されることによって生じることがほとんどである。そもそも産業資本主義の勃興時、イギリスのインド進出の初期に、イギリス国内でキャラコ禁止法が制定されたことからわかるように、産業資本主義による「自由市場」は出発からして、国家による法律が市場の形式を、特定の国家・個人に有利な方向へと絶えず変更することで成立しているのである。

ワシントンコンセンサスと「開発」

続いて第3章において、先進国と発展途上国との間の「激しい格差という不公正は、経済成長にしがみついて、これ以上の環境破壊をしなくとも、ある程度は是正できる」(p.107)と斎藤は述べている。「今の総供給カロリーを一%増やすだけで、八億五〇〇〇万人の飢餓を救うことができる」、現在電力を使用できない一三億人に「電力を供給しても、二酸化炭素排出量は一%増加するだけだ」、「一日一・二五ドル以下で暮らす一四億人の貧困を終わらせるには、世界の所得のわずか〇・二%を再分配すれば、足りる」等々(p.106)。こうした記述は統計情報に基づいた一面的な事実である。そうした事実を示した上で斎藤は、カーボン・バジェット(まだ排出が許される二酸化炭素の量)を上記のような人々のために残しておくべく、先進国がマテリアル・フットプリントを減らすべきだ、と主張している(p.110)。一見すると、この部分は社会的正義を実現するための方策のように見える。実際、先進国がマテリアル・フットプリントを減らさなければ、カーボン・バジェットの枠内で、発展途上国が排出量を増やすことは不可能である。

だが、果たしてドル建てで見た「貧困」は果たして解決すべき問題だったのか、という点に対する反省が、この部分からは抜け落ちてしまっている。見田1996でも述べられているが、IMFWTOのいうグローバルサウスの「貧困」とは、先進諸国が「開発」を行うための根拠として人為的に作られた言説である。要するにコモンと結びついた自給的な生活を送っている人々に対し「ドル建てで見た時に、貧困状態にある。救済しなければならない」との評価を一方的に下し、ワシントンコンセンサスに基づく「開発」の名のもとにコモンからの切り離し・「市場の自由化」が行われたのだ。こうしたワシントンコンセンサスや「自由化」の過程は、Stiglitz 2002に詳しい。「自由化」が行われ、貨幣による「自由市場」が形成されたからこそ、「貧困(ドル建てで見た場合の低収入)」・電気や教育にアクセスできないことが「問題」化され、そうした「問題」を根拠に更なる「自由化」が進められていった。こうした経緯に対する反省無くして、南北間の不公正の是正を主張するのは、「自由化」を中心とした「開発」と理論的な背景を同じくしていると言わざるを得ない。

実際、「電力や安全な水を利用できない、教育が受けられない、食べ物さえも十分にない、そういった人々は世界に何十億人もいる。そうした人々にとって、経済成長は勿論必要だということである」、「だから、開発経済の分野では、南北問題解決のためには経済成長こそが鍵であるとずっと唱えられてきたし、さまざまな開発援助が行われてきた。その善意や重要性を否定するつもりは毛頭ない」(p.102)などと呑気な話がなされている。搾取を停止するために必要なことは、単なるインフラの整備に留まらず、「自由化」で歪められてしまった市場構造の是正、失われてしまった発展途上国の主権の回復も含まれるはずだ。

加えて、アフリカの例でいえば、そうした搾取の担い手はIMFWTOの政策を後押しした日本をはじめとする「旧西側先進国」から中国へと移っている。中国の一帯一路政策によるアフリカ進出・南欧進出・アジア進出(東南アジアから中央アジア、南アジアと幅広いアジアへの進出)とどう向きあうかという問題への解決策は、先進国が資本主義を脱することによっておのずから見えてくるとでもいうのだろうか。

観念的対立

また同章において斎藤は、佐伯や広井の議論を「資本主義的市場経済を維持したまま、資本の成長を止めることができるというわけだ」(p.128~129)と分析し、「賃労働・資本関係や私的所有、市場の利潤獲得競争といったものに根本的変更を」(p.129)加えない、誤った楽観論だとしている。しかし6章、7章を見ればわかるように、斎藤の提案する解決策は、社会的共通資本の保護、エネルギーの自給自足、食料生産・ケア労働への重点化など、広井の「コミュニティ経済」のコンセプトとひどく似通っている。「コミュニティ経済」においても、コミュニティ外部への資金流出の規制や社会的共通資本の保護といった、斎藤の提案する案は既に盛り込まれている。正直なところ、広井と斎藤との相違は、マルクス主義に立脚するかコミュニティに立脚するかといった資本主義への視座の違いに過ぎず、観念的対立でしかない。また資本主義への根本的な転換を本当に迫るのであれば、斎藤の提案は不徹底と言わざるを得ない。その点に関しては、第7章の部分で後述する。

社会的共通資本・社会的費用の計測

次に第6章において斎藤は、先述の「<コモン>を通じて人々は、市場にも、国家にも、依存しない形で、社会における生産活動の水平的共同管理を広げていくことができる」(p.266)と述べている。こうした活動がGDPの減少と環境負荷の低減を実現し、気候変動への対策になると説いている。主張自体は、うなずけるところも多い。しかしその一方で、斎藤は一体どのようにしてそうした<コモン>の効果を測るのだろうか。その方法は必ずしも明示的とは言えない。社会的費用・社会的共通資本の価値の計測が今後課題となってくるだろう。

大体コモンを通じた水平的共同管理を目指す人々は、地球環境のことを思いやってそうするのであれ、それがどれくらい環境に資する活動なのかどうやって知ることができるというのだろうか。

「価値」と「使用価値」の二項対立の妥当性・実効性

第7章において斎藤は、商品の「価値」と「使用価値」との対立に関する議論を展開しているが、具体例として挙げられるものが不適当なものばかりである。ここでは食料自給率(p.284)とコロナ禍(p.285)を取り上げよう。

まず食料自給率について「気候危機の場合には、食料難が深刻化するだろう。日本のように食料自給率が低く、レジリエンスの無い国は、パニックに陥る」(p.284)としている。日本では、カロリーベース総合食料自給率という世にも奇妙な代物が用いられていることを斎藤は忘れているか、わかっていないのではないかと思う。食料自給率には品目別食料自給率と総合食料自給率とがある。更に総合食料自給率にはカロリーベース総合食料自給率と生産額ベース総合食料自給率とがある。ここでは「食料自給率が低い」という記述からカロリーベース総合食料自給率に言及しているものだと思われるので、その線で話を進めていく。

世界でもカロリーベース自給率を使って一国の農業を論じるのは一般的では無い。何故なら一国の農業の実態を反映しないからだ。カロリーベース自給率は、カロリーの高い食物を自国で生産しているかどうかに大きく影響される。だが実際、牛肉のようなカロリーの高い食物を育てるとき、輸入飼料を用いた方がコストが少なくて済む。総合自給率の算定では、飼料が輸入品ならば、国内で育てられた畜産物であっても、自給率に組み込まれない(農林水産省2020)。このように日本の総合食料自給率には下押し圧力が常にかかっている。また野菜のようなカロリーの低いものをいくら生産したところで、自給率には何の足しにもならない。実際、農林水産省2020で挙げられている2019年度のデータでは、日本のカロリーベース総合食料自給率は38%、生産額ベース総合食料自給率は66%となっている。竹下2019はこうした不合理な自給率が採用された理由として、農林水産省が日本の農業を、必要以上に弱く見せることで大量の補助金農水省に誘導していることを指摘している。

日本の食料生産にどれだけのレジリエンスがあるのか、カロリーベース総合自給率はあまり教えてくれない。斎藤の「食料自給率が低いから、レジリエンスがない」という主張は農水省の主張そっくりである。

続いてコロナ禍を例に挙げている部分である(p.285)が、この部分は、脱成長という斎藤自身の結論と真っ向から対立しており、論理が破綻していると言わざるを得ない。ワクチンの大量生産は、科学革命以降の科学と製薬・販売を通じた市場の枠組み、政府によるそうした産業への積極的投資が無ければ不可能である。勿論製薬産業の構造や特許権WTOを通じた医薬品に対する発展途上国のアクセスの制限など、問題は多々ある。しかしワクチンの大量生産が上記のような仕組みを用いなければ成立しないのは事実である。むしろ問題は情報の非対称性や近視眼的な市場構造、緊縮の方にある。市場の構造によって、ワクチン研究が行われていなかった割には、迅速にワクチンの製造が行われたとみるべきである。

そもそも感染症古代ローマ感染症や中世の黒死病など、商業資本主義(近代以降の産業資本主義と区別する)が盛り上がる度に、発生してきた。遠距離の移動の活発化は、必然的に感染症のリスクを有している。資本の蓄積によって限りない拡大・成長を目指す産業資本主義がなくなったからと言って、感染症の発生が全くなくなるわけではない。斎藤の言うような国家の計画から独立した生産体系、1970年代以前の生活水準に戻るということは、ワクチンの開発・製造の速度が緩慢になり、そうでない場合よりも死者が増えるということを許容することを意味こそすれ、ワクチン製造の高速化を実現することはない。断っておくが、筆者は、地球環境のために感染症による死者の増加を許容するということには反対しない。斎藤が資本主義の超克を掲げておきながら、感染症に対して中途半端な姿勢を取っていることを批判しているに過ぎない。

加えて、上記のような的外れな具体例が挙がらないようになったとしても、何が「使用価値」であるのかを誰がどのように決めるのかという問題が依然残る。市民一人一人が決めるというのでは、あまり現状と変わらない気がする。要は共産党のような「前衛政党」が決定するということになりはしないか。仮にそうなるとして、誰がそうした党の決定が適正であると審査・判断するのだろうか。「価値」から「使用価値」への転換は具体的な実践を考え始めると、途端に輪郭がぼやけてしまう。

 

   参考文献

<日本語文献>

アントニオ・ネグリ,マイケル・ハート, 2003,『<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』, 以文社.

アンネ・クリスティーヌ・デ=アデスキー, 2003, HIVジェネリック薬:革命への準備は整ったのか, アフリカ日本協議会, Web. Retrieved from: https://ajf.gr.jp/lang_ja/db-infection/200310generics.html Last access: 2021-06-01.

岩井克人, 2006,『二十一世紀の資本主義論』, ちくま学芸文庫

宇沢弘文, 1974,『自動車の社会的費用』岩波新書

宇沢弘文, 2000,『社会的共通資本』, 岩波新書.

資源エネルギー庁, 2017,「原発のコストを考える」Web. Retrieved from: https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/tokushu/nuclear/nuclearcost.html Last Access: 2021-05-25.

竹下正哲, 2019,『日本を救う未来の農業 ─イスラエルに学ぶICT農法』筑摩書房

農林水産省, 2020, 「食料自給率とは」Web. Retrieved from: https://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/011.html Last Access: 2021-06-16.

見田宗介, 1996,『現代社会の理論:情報化・消費化社会の現在と未来』岩波新書

除本理史, 2017,「福島原発事故における被害の包括的把握と補償問題―社会的費用論の視覚から—」『一橋経済学』11(1): 3-14.

<英語文献>

Stiglitz, Joseph E., 2002, “Globalization and Its Discontents.”: W. W. Norton &company. (鈴木主税訳『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』、徳間書店、2002年)

 

 

メモ書きは以上である。今後、このメモ書きからの発展をお楽しみに。